Ayacollepian アヤコレピアン
船上のセレブを魅了し激動の時代を
生き延びたかのような大衆純音楽!
2005年発!(by 山田民族 F・L・Y)
- 恋するミラノ
- すみれ
- 言わないで
- 確かなしるし
- 私の運命線
- 大きい川小さい川
- どんな夢みたの?
- そら
- 宣言
- ラ ディスタンス
参加ミュージシャン
- 守屋 拓之(Contrabass)
- 庄司広光(soundModulation)
- 福島幹夫(altsax sopranosax)
- SACHI‐A(drums)
produced by YAMA records YAMA001R
- photo Natsuko iwaya
2005年10月号「PLAYER」インタビュー掲載(by岡村詩野)
アヤコレットの名前を知ったのはアメフォンという異色のプロデューサー兼アーティストの作品においてだった。その跳ねるような躍動感。瑞々しいソプラノなのに演奏の音の壁を軽く越えてくる強さ。自由度の高い譜面割り。彼女のヴォーカルは、あらゆる点で規範を外れたものだった。なのにポップ。どうしようもなく響きはポップ。一体どうゆう女性なのだろう、ずっとそう思ってきた。そのうちに、彼女はTsukinowaのメンバーでもあるコントラバス奏者の守屋拓之と組んで多くのステージもこなし始めた。
そのアヤコレットが正式なレコーディング作品としては初となるアルバム「アヤコレッピアン」をリリースした。約10年にも渡って活動をしてきたそのキャリアをもってすれば、遅すぎるデビューとも言える。アヤコレットは国立音楽大学のリトミック科出身。ピアノも声楽もちゃんと勉強したのちに入学したという。「でも大学に入ったらジャズに傾倒しちゃって、学校にはほとんど行かなくなっちゃった(笑)
吉祥寺のジャズ喫茶でアルバイトしてたもんだから、古いジャズのレコードとかも聴くようになって。だから、せっかくオペラの先生に褒められたこともあったのにそっちには進まなかったし、ピアノの方でもクラシックには行かなかったですね。でも、かといってジャズピアニストの方もなんか違うかな?っていうのがあって。どこにもハマらないなぁって思っていたんですね実際。当時ジャズ界隈のミュージシャンの人たちから‘あなたとはどうやって関わっていいかわからない‘、って言われましたよ。それだけ自分一人で完成された世界があったんでしょうね。ただ、ピアノを弾きながら歌うとすごく自分には良くって‘あ、これだ!‘とは思っていましたね。とはいえ、ピアノの弾き語りってスタイルも好きじゃなくって(笑)。ピアノのリズミックな要素や演奏の面白さもちゃんと持っていたいし、歌の伴奏のためのピアノっていうのだけはイヤだったんですよ。でも、本当に何から何までハミ出てましたね(笑)」
大学卒業後は、ゴダールなどのフランス映画にハマっていたこともあり、フランスのソルボンヌ大学に留学。パリではライブ活動もしていたそうだが、「自分の音楽に映画的な要素を入れたい」というスタイル、すなわち、映画のシナリオも率先して歌っていく、今日のスタイルがこの時期からできあがっていったという。アヤコレットが現在、様々な文学や映画の断片を歌詞として引用し歌っているのも、この時代の経験が大きくものを言っている。アヤコレットという名前についている‘コレット‘はジョルジュ・バタイユの恋人の名前からとられたものだ。だが、彼女が歌う歌は徹底して日本語。フランスでライブをしている時も、絶対に日本語であることを譲らなかったのだそうだ。
「だってフランス人が日本に来て日本語で歌うのってやっぱり可笑しいじゃないですか。絶対に自分が持っているものをそのまま出した方が伝わるし、日本語の響きの良さを聴いて欲しいっていうのもあります。でも、私は自分で歌詞を作ることは滅多にしないんです。素晴らしい詩や言葉は世の中にいっぱいある。だったら、それを自分の表現力とピアノで伝えていく方がやり甲斐があると思うんですよ」
自分はシンガーソングライターというよりプレイヤー、と言いきるアヤコレット。自分の言葉と演奏とがベッタリ寄り添うことに抵抗を感じると言うアヤコレットの演奏は、確かに情緒的なニュアンスからは最も遠いところにある。もちろん、そこにエモーションはある。だが、彼女は自分自身の感情をそこに投影はしない。アルバム「アヤコレッピアン」では、ボードレール・金子光晴・ゴダール・ラングストンヒューズらの言葉が彼女の軽やかな歌声とピアノ演奏の上でヒラヒラと踊り、舞っている。その様子は花びらが風に乗って太陽の光をキラキラと反射させるような光景を思い起こさせるほどに美しく、そしてあまりにも晴れやかだ。アヤコレットの音楽が単なる‘歌モノ‘でも‘ジャズ‘でも‘ポップス‘でもないのは、そこに‘表現すること‘の楽しさ、難しさ、素晴らしさがまずあるからではないかと思う。伝えたいことがあるのではない。どうやって伝えるかがあるのでもない。‘伝えているこの瞬間‘がここにあるのみだ。だから、彼女の音楽はどこにも縛られない。
「私が表現力みたいなところを大事にしているのと、どこからもアウトしているのは、フランスにいた頃、いわゆる貧民街みたいなところに暮らしていた経験も大きかったと思います。最も治安の悪い地域と言われていたところに住んでいたんですよ。アフリカ系やアラブ系やアジア人とかが多く住んでいて、市場の時に子供が野菜とかを持って走り去るような汚いところ。アルバムに入っている「恋するミラノ」って曲は、その頃の体験をもとにしたものなんです。でも、そういうところに身を置いて音楽に関わっていたっていうことが、自分の表現力とかを高めていたのかもしれないって思いますね。エジプトに住んでる友人が、私のHPを通じてあの曲を毎日聴いてくれて、‘カイロの町並みと、あの曲のイメージがすごく近いんです‘ってメールをくれたことがあって。すごく嬉しかったですね。